旅の始まり—バンフへ
深夜2時、Goldenの暗闇の中を出発し、Rider Expressのバスは静かに峠を越えていく。朝6時、バンフに到着した時、街はまだ薄い眠りの中にいた。
バンフの宿は高く、また予約も取りにくい。もし泊まる場所がなければ、CanmoreやCalgaryに滞在し、FlixBusやOn Itを利用すればバンフへは容易にアクセスできる。

Elk Street Transit Hubの自動販売機に25ドルを投入し、Roam Transitの一日乗車券を手に入れる。それは今日一日、この小さな山の町を自由に移動できる通行証だ。荷物はBounce.comに預ける。手が軽くなったところで、カメラを背負い、バスに乗り込んだ。

Bow Falls—水の呼吸
まずは4号線のバスに乗り、Bow Fallsへ向かう。滝は深く低い音を立てながら、絶えず流れ続けていた。その轟音は遠くまで響き、水は岩を削り、霧となって空へ溶ける。

古びた木製の大判カメラをセットし、ファインダー越しに滝の流れを追う。シャッターを押す瞬間、時間は止まり、流れ落ちる水が静止する。

しかし、目の前の水は止まらない。ただそこに、あるがままに存在し続ける。写真とは、流れるものを切り取る行為だが、果たして、それは「本当の姿」を写しているのだろうか。

Lake Minnewanka—光の戯れ
昼を過ぎ、6号線のバスに乗り、Lake Minnewankaへ向かう。陽が高くなる頃、この湖はもっとも美しい表情を見せる。

水面は静かで、Cascade MountainとMount Inglismaldieがその青い鏡に映り込む。風が吹けば、山の姿は揺らぎ、歪み、崩れ去る。しかし、次の瞬間にはまた元の形に戻る。まるで人の記憶のように。

カメラを構え、湖と山をフレームの中に収める。目に映るものを写真にするという行為は、記憶を「固定」しようとする無意識の衝動なのかもしれない。しかし、それは本当に「記憶」なのか、それとも「作られた過去」なのか。

Banff Red Chair Two Jack Lake—静寂の午後
6号線のバスに乗り、市街へ戻る途中でTwo Jack Lakeに降りる。Mount Rundleを静かに見つめている。まるで長い間、誰かを待っているかのように。
午後の光は柔らかく、湖面に反射して揺れる。風が吹くと水の表情が変わり、世界の輪郭がぼやけていく。ここに座ると、時間の流れが遅くなるように感じる。
カメラを湖に向ける。シャッターを切る前に、しばらくの間、その風景を目に焼き付ける。写真に収めるという行為は、「忘れることへの恐れ」なのだろうか。

Hoodoos Viewpoint—時間の彫刻
最後に、2号線のバスでHoodoos Viewpointへ向かう。風と雨が削り取った岩の柱が、谷間に静かに佇んでいる。ここには、数千年の時が刻まれている。
Bow Riverは、銀色の帯となり、谷をゆっくりと蛇行している。対岸にはMount Rundleがそびえ、夕日がその影を長く伸ばしていく。
カメラのファインダー越しに、その風景を覗く。構図を決め、露出を調整し、最後に指をシャッターへと滑らせる。その一瞬を切り取ることで、永遠を手に入れた気がする。しかし、それは本当に「永遠」なのか。

旅の終わりに—写真とは何か
バンフの町に戻り、撮影したフィルムを確認する。Bow Fallsの流れ、Lake Minnewankaの静けさ、Two Jack Lakeの午後、Hoodoosの刻まれた時間。すべてがそこにある。
だが、それは本当に「そこにあった風景」なのか。
写真とは、時の流れの中から、ある一瞬を切り取る行為だ。しかし、切り取った瞬間に、それは「過去」になる。過去は記憶となり、記憶は歪みながら再構築される。ならば、写真は「真実」なのか、それとも「幻影」なのか。
旅をする者は、風景の中に自分を探す。写真を撮る者は、時間の中に答えを求める。しかし、その答えが見つかることはない。ただ、シャッターを切り続けるのみだ。
それが、「旅」と「写真」の本質なのだから。
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