聖ジョンズ
大洋を越え、大陸を横断し、私はこの島へと辿り着いた。
カルガリー、モントリオールと乗り継ぎ、七月の聖ジョンズへ降り立つ。海からの風は微かに涼しく、頬を撫でる。気温は十七度ほど。時の流れはここでは緩やかで、まるで別の世界のように静謐である。
宿泊先は、ニューファンドランド記念大学の寮。窓の外には、朝の光に包まれた緑が揺れている。歩みを進めると、道端には杜鵑の花が咲き始めていた。それは春の名残なのか、それともこの島の季節が、どこか遅れて巡るものなのか。思わず立ち止まり、花の色に見入った。
車道では、運転手たちがじっと車を止め、野鴨が横切るのを待っていた。彼らは誰一人として急がない。ただ、静かに、その時を見守っていた。その光景に、ふと故郷の横断歩道を思い出す。人よりも、野の鳥の方が優先される場所があるとは——。
石と祈りの大聖堂
午後、街の輪郭を知るために歩いた。
聖ジョンズの街並みを見下ろす丘に、聖ヨハネ大聖堂が建っている。灰色の石壁は長い年月を刻み、静かに歴史を湛えていた。重い木の扉を押し開くと、そこには、薄暗くも穏やかな空間が広がっていた。
ステンドグラスから射し込む光が、古びた椅子と聖壇を彩る。私はそっと腰を下ろし、目を閉じた。吹き抜ける風が、わずかに戸を揺らし、微かな音をたてる。それは、遠い時のささやきのようであった。
港と灯台、そして果てしない海
港へ向かうと、戦争記念碑が海を背にして立っていた。ニューファンドランドの名もなき若者たちの名が、石に刻まれている。多くが還らぬ人となったこの地で、人々は今もその名の前に立ち止まり、静かに帽子を取る。歴史は、ここでは忘れ去られることがない。
丘を下れば、街の家々は「ジェリービーン・ロウ」と呼ばれる鮮やかな色彩を纏い、並んでいる。青、赤、黄、緑——それはまるで、嵐の海の上に浮かぶ灯火のように、街を彩っていた。
私は港の縁に腰を下ろし、波の音を聞く。漁船が揺れ、カモメが鳴く。潮の香りが風に運ばれ、石畳を濡らしていく。時の流れは、ただ、ひたすらに静かであった。
二日目——岬を歩く
夜明け前、鳥たちの目覚めを見たくて、街を離れる。
向かう先はブラックヘッド。そこから、デッドマンズ・ベイ・パスへと足を踏み入れる。
霧が、水平線を隠していた。
風は強く、潮の匂いが全身を包む。眼下には断崖、下には荒れる海。波は岩を砕き、白い飛沫が霧と溶け合っていく。
石と苔に覆われた小道を、慎重に進む。遠くで、大黒背鷗が羽を広げた。雲間を切り裂く刃のように、鋭く、しなやかに。やがて、それは海面へと滑空し、一瞬のうちに銀色の魚をくわえて飛び去った。
そして、白頭鷲。
大きく広げた翼の下、海と風を見下ろす。彼の眼差しは鋭く、悠然としたその姿に、ただ息を呑む。ここは彼らの地、私は旅人に過ぎない。
数時間の後、スピア岬の灯台に辿り着く。
ここは、北米最東端。灯台は霧に包まれ、海の果てを見つめている。私は石の上に腰を下ろし、波の音を聴く。旅人とは何か、土地とは何か。その問いの答えを、潮が運んでくるのを待つように。
三日目——霧の海にパフィンを追う
この日の目的は、海に浮かぶ精霊——パフィンを探すこと。
朝、霧は深く、海は見えなかった。
「アイスバーグ・クエスト」の船に乗り、静かに沖へ向かう。世界は、ただ白と灰の境界に消え入り、音すらも吸い込まれそうだった。
何も見えぬまま、時間が過ぎる。
波の音、船の軋む音。潮風は冷たく、指先にまで染み込むようだ。
だが、突然、霧の合間に、黒い影が横切った。
小さな、しかし力強い羽ばたき。海の上を滑るように飛び、橙色の嘴が一瞬光る。パフィンだ!
彼らは魚をくわえ、器用に波間を泳ぐ。飛び立つ瞬間は不器用に見えるが、それでも空へと舞い上がる。私は夢中でシャッターを切る。旅の目的は、この瞬間にあったのだと——そう確信した。
四日目——別れの時
最後の日、私は再び街を歩く。
教会の石壁は変わらずそこにあり、信号山の丘には風が吹く。丘の上から見下ろす港の景色は、初日に見たものと同じはずなのに、何かが違って見える。
聖ジョンズの時間は、他のどこよりもゆっくりと流れる。
風は語り、潮は記憶を運ぶ。人と自然は、ただここにあり、共にある。
午後、私は空港へと向かう。
飛行機が浮かび上がるとき、下を見下ろした。霧は、変わらず海を覆い尽くしていた。まるで、記憶を包み込むように。
そして私は、この土地の物語を胸に、次の旅へと向かう。
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