ナイアガラへ
ハミルトンの街には、まだ夜の名残が漂っていた。街灯の淡い光が歩道に長く細い影を落とし、静寂の中に微かな余韻を残している。私は鞄を引きずりながらバス停へ向かった。空気はしっとりと湿り気を帯びており、それはまるで過去の記憶がまだ完全には覚めきっていないかのようだった。やがて、東の空が仄かに白み始める。地平線の向こうから、最初の朝の光がゆっくりと零れ出し、バスの窓にそっと触れては、硝子の表面に微かな温もりを残していく。
バーロントンGO駅には、多くの人が行き交っていた。私は乗り換えのバスに乗り、ナイアガラの滝を目指す。バスは都市の喧騒を抜け、やがて広大な田園風景へと差し掛かった。太陽がゆっくりと昇り始め、その光がやわらかく大地を包み込む。その輝きは、これから目の当たりにする壮大な景色への、まるで静かな前奏曲のようであった。
大地の鼓動、瀑布の咆哮
ナイアガラの町に到着する前から、遠くに滝の轟音が響き始めた。それはただの音ではない。はるか昔から続く、果てしない囁きのようでもあり、あるいは、大地そのものの心臓が脈打つ音のようでもあった。水の霧が微風に乗って舞い上がり、肌に細かな水滴が触れる。ほんのわずかな冷たさが、感覚を研ぎ澄ませるようだった。
スカイロン・タワーの頂からは、滝の全景を見渡すことができる。ホーンブロワー号の遊覧船に乗れば、滝壺の間近まで迫ることもできる。だが、最も美しいのは、レインボーブリッジの上から見る滝の姿であろう。そこには、人の手では決して作り出すことのできない、自然の神秘が広がっている。
展望台に立ち、滝を一望した瞬間、私は思わず息をのんだ。それはただの水の流れではない。大地と空が交わり、時とともに舞い踊る壮大な絵巻であった。ホースシュー・フォールズの湾曲した白銀の幕が、轟音とともに無数の水滴へと砕け散り、陽光を受けて朧げな虹を描き出す。
風は時折向きを変え、霧を翻弄する。時に遠ざかり、時に頬を撫でるように寄り添い、それはまるで滝自身が呼吸をしているかのようであった。カメラのレンズに落ちた水滴をそっと拭いながら、私は思った。この光景をどんなに鮮明に写し取ろうとしても、本当の迫力は決して閉じ込めることはできないのだと。
水の王国へ、雷鳴の中心で
もし展望台が滝を見つめる場所ならば、ホーンブロワー号は、滝の鼓動の只中へと踏み込む場である。甲板に立つと、水煙が全身を包み込み、視界はたちまち朦朧とした銀白の世界へと変わる。船が進むにつれ、滝の音はますます激しさを増し、それはもはや「聞こえる」ものではなく、「感じる」ものとなる。
ホースシュー・フォールズの中心へ近づくと、その轟音は雷鳴のように響き渡り、全てを呑み込むかのようだった。流れ落ちる水の壁を見上げると、人間の存在など取るに足らぬものに思えてくる。この光景は、悠久の時が刻み込んだものであり、人の手によって変えられるものではない。
霧の奥へと進むにつれ、私は自分がどこにいるのかさえ分からなくなった。ただ、純粋な白、純粋な水、純粋な力がそこにあるのみ。時が消え、空間が消え、ただ滝の鼓動と、自らの鼓動だけが残る。それは、大自然の持つ圧倒的な力に、完全に身を委ねる瞬間であった。
夜の帳が下りても、滝はなおも轟く
陸へ戻った頃、衣服にはまだ水の冷たさが残っていた。だが、心の中には、滝の熱が宿っていた。ナイアガラの滝とは、単なる観光地ではない。それは、水と光と音が織りなす、ひとつの交響詩であった。
滝の近くには、華やかなネオンが瞬く商店街や遊技場が広がっていた。その派手な光景は、まるで異国の劇場のようであった。食事はどこも高価だったが、北米で最も安く済ませられるのはファストフードである。私は温かいウェンディーズのハンバーガーに舌鼓を打ち、旅の余韻に浸った。
再びバスに乗り、バーロントンGO駅へ戻り、そこから鉄道に乗り換え、トロントへと向かう。夜の帳がゆっくりと都市を包み込み、私は荷物を引きずりながら、静かなホステルの一室へと足を踏み入れた。窓を開けると、冷たい夜風がそっと頬を撫でる。
滝の音は、もう聞こえない。だが、私の心の奥底では、まだあの轟音が鳴り響いていた。それは消えることのない記憶として、静かに息づいているのだった。
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